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日语论文范文:雑種文化と日本の近代化

要 旨

日本は明治維新の後、封建社会から資本主義社会に移行する発展道路に上がって、現代化を実現した。日本の主な成功経験は「全面西化」と「全面国粋化」の弊害を免れたので、日本文化の主体を現代化の中で力の作用を発揮させて、しかも、実践を通じて近代化もモデルを確立した。加藤週一先生は「日本文化の雑種性」の理論を主張して、目的は西方の現代文明を吸収することで、伝統的な封建性を克服する。そしてこの理論を基礎として、科学技術マナーを守りながら「民主主義+伝統文化」の近代化モデルを出した。
現代のグローバル化と地域化を考える時、私達がどのように地域文化の伝統を積極的に確認するかが大きな課題である。私から見れば、加藤週一さんは日本思想界に挙げた貢献は、彼が現代の日本社会に開放的なシステムを提供しただけではなくて、更に、彼が直接に日本社会の「雑種性」に直面し、日本の思想界に発展の正しい前提を挙げたのである。
21世紀の現代文明は、1種の文明で統治するではなく、各種の文明・文化と融合しながら共存するので、時々摩擦が発生するかもしれなく、しかし平和共存するのは主題である。人類は共に新しい文明、新しい思想を創 造して、これは人々が期待しているのである。

キーワード: 雑種文化 日本の近代化 加藤周一 中華文明 西洋文明

摘 要

日本在明治维新之后,走上了封建社会向资本主义社会过渡的发展,实现了现代化。日本的成功经验,主要是避免了“全盘西化”和“全盘国粹”的弊端,使得日本文化主体在现代化中起着动力的作用,并且,在实践中确立了自己的现代化模式。加藤周一先生主张“日本文化的杂种性”的理论,目的是吸收西方现代文明,来克服传统的封建性,使其再生,并在这个理论基础上,提出了“科技文明+民主主义+传统文化”的现代化模式。
在思考今天的全球化和地域化时,我们同样面对着如何以及在多大程度上确认地域文化传统的积极意义这样的课题。在我看来,加藤周一对于日本思想界的贡献,不仅在于他为思考当代日本社会提供了一个开放的体系,而更根本的地方,在于他肯直接面对日本社会“杂种” 的现状,为日本思想界清晰描绘出了一个正确思考日本的前提。
21世纪的文明,不可能是由一种文明统治所有文明,而应该是多种文明并存,尽管时而会有冲突或发生摩擦,但更多的是和平共处,是并存。人类将会共同创造新的文明、新的思想,这是人们所期盼的。

关键词: 杂种文化 日本近代化 加藤周一 中华文明 西方文明

目 次

要 旨……………………………………………………………………………Ⅰ
摘 要……………………………………………………………………………Ⅱ
はじめに………………………………………………………………………………1
1日本古代にて雑種文化の発足 …………………………………………………2
1.1 雑種文化の発端……………………………………………………………2
1.2 雑種文化中で中華要素の全盛期…………………………………………3
1.2.1 聖徳太子と遣隋使…………………………………………………3
1.2.2 隋唐時代にて「対等」の関係…………………………………3
1.2.3 唐風文化の形成…………………………………………………4
1.2.4 国風文化の形成……………………………………………………4
1.3 五代・宋朝の日中交流……………………………………………………5
1.3.1 経済貿易の繁栄……………………………………………………5
1.3.2 政治の無国交…………………………………………………………5
1.4 元明時期の平和と戦争…………………………………………………6
1.5 封建晩期の日中関係……………………………………………………6
1.6 日本古代の雑種文化の本質……………………………………………6

2 江戸時代の三大文化の多元構造…………………………………………………7
2.1 江戸時代の儒学…………………………………………………………7
2.1.1 儒仏分離……………………………………………………………7
2.1.2 神儒一致……………………………………………………………8
2.2 江戸時代の国学…………………………………………………………8
2.3 江戸時代の蘭学…………………………………………………………8
2.3.1蘭学の先導―南蛮文化……………………………………………8
2.3.2江戸時代の蘭学の発展……………………………………………9
2.3.3 蘭学が日本近代化への啓蒙………………………………………10

3 華学と洋学の二重構造下の日本近代化……………………………………12
3.1 中国の伝統文化が日本近代化への影響…………………………………12
3.1.1 日本近代化の思想の基礎…………………………………………12
3.1.2 「文明開化」が伝統文化への拷問…………………………………13
3.2 洋学が日本近代化への影響………………………………………………13
3.2.1 「殖産興業」の盛り…………………………………………………14
3.2.2 「和魂洋才」と雑種文化の創造性…………………………………15
3.3 日本近代化の実現…………………………………………………………15
3.3.1 脱亜入欧……………………………………………………………15
3.3.2 全般欧化……………………………………………………………16

4 日本近代化が雑種文化への反作用……………………………………………17
4.1 二戦後の脱亜入米………………………………………………………17
4.1.1米国への「一辺倒」………………………………………………17
4.1.2米国文化の模倣と強化……………………………………………18
4.2 日本が米国への「第二次侵入」…………………………………………18
4.3 低迷期の日本の雑種文化…………………………………………………19

おわりに……………………………………………………………………………20
参考文献……………………………………………………………………………21
謝 辞……………………………………………………………………………22

はじめに

日本社会が今「和民族」として存在していて、そして、日本文化が世界から様々な長所を取り、融合した。今の時点で話している「日本文化」というのは、朝鮮や中国からの伝来文化を基軸として、日本自身の地域風習に合わせながら変遷してから、明治時代に西洋文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化したものである。
中国正史により、公元1世紀、東漢王朝が倭国に爵位や封号を与えることによって、日中両国が外交関係の始まりを記録された。238年邪馬台国女王が使者を派遣して、魏に朝貢した。そして、413-418年、倭の五王は相次いで使者を派遣して、封号や爵位を追求した。7世紀の中から8世紀の中頃まで、当時の皇族や貴族は、遣唐使によってもたらされた周(武周)の武則天や唐の玄宗の文化を積極的に取り入れた。10世紀になると、唐風文化の影響から日本在来の文化と融合して、その後の日本文化に大きく影響を与えていく思想・文学・美術・風俗などが貴族を中心に構成されて行った。これを国風文化と言う。五代・宋朝の日中交流は「政治冷め・経済熱」という状態であった。民間レベルでの交流がすごく多くて、深度も以前より深くなった。その後、封建晩期から日清戦争迄、両国は政治的に親しみにしていなかったが、中国大国への尊敬の意識と崇拝する気持ちは日本国民間に浮かんでいた。
日清戦争の後、日本社会にいろんな観点が出てきた。対中態度は崇拝から疑問と軽視になった。福沢諭吉は世界の国々を野蛮・半開・文明の三段階に分け、欧米諸国を文明の国、日本や中国・朝鮮を半開の国と位置づけた。 その後、脱亜入欧の思潮が流れ込んできた。二戦後、日本は米国に尊敬な思いを抱いて、「脱亜入米」という風潮を行った。日米外交関係、日米貿易などの面から日本は米国と仲良く付きあい、いろいろ政策を作り出したのである。
本文は時代と重要な事件を粗筋として、世界各種の雑種文化が日本近代化に具体的な影響を浅く分析する。後から研究する者達へ僅かな手本と参考ができたらいいと思う。

1 日本古代にて雑種文化の発足

中日関係の歴史が長くて、近代前の中日関係は日本の近代化と日本の雑種文化の研究における避けられない問題である。アヘン戦争までに、果てしなく長い古代の東アジア国際関係史の上で、急速な発展を進んでいた中華文明は長く栄えていた。中国は周辺の国家と民族にとって学習とまねの対象と見られていた。こういう状態を基礎として、中国の歴代王朝は王道の思想を基にして、朝貢と柵封という形で、東南アジア圏の秩序を建築された。

1.1 雑種文化の発端
『後漢の本』によって、「倭在东南大海中,依山岛为居,凡百余国。」という記載がある。わが国の研究者が「倭」という国は、今北九州の福岡の一辺にあるという。東漢王朝が倭国へ爵位を与えることは古代日中関係の扉を開かれた。236年、一時に盛んだ邪馬台女王国は難升米(邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫)を派遣して、帰順という願いを伝えていた。  魏の皇帝がすごく喜び、邪馬台国に金印をあげた。その後、東晋が滅ぼするまでの1個半世紀間、日本の使者は中国に訪問した回数は十回以上であるという。これは、両国の外交関係がずっと繋がっていた証拠とも言える。413年から478年まで、いわゆる「倭五国」の時期、派遣することもよくあるという。
以上述べたのように、隋以前の日中関係は二つの特徴がある。その一、中国の素晴らしい文明が隋の前に世界の東方で揺り動かしてはいけない強い地位を作り上げた。文明において、そんな大きなギャップは日本自身が自発的に中国に近ついて学ぼうというような客観的な存在であり、日本政府が自己を守るために、そして、自分の利益を保つために、中国に頼りにすると言える。その二、この時期の中日関係は一つの縦の関係で、冊封という形で確立した従属関係である。隋以前のこの時期に両国関係がいろいろ変化があるが、その従属の本質は大分変わらなかった。邪馬台国の朝貢から、倭五国が自発的に爵位を求めることになっていた。

1.2 雑種文化中で中華要素の全盛期
隋唐時代はいわゆる「中日の古代交流の最盛期」を称することができて、この時に、日本は頻繁に遣隋使や隋唐使を派遣したことで中国と仲良く付き合い、自分を見守っていた。隋唐王朝にも何度も使者を派遣して日本へ行って友好関係を保っていた。古代中日の付き合いは人々によく知られている佳話をたくさん残したのである。
1.2.1 聖徳太子と遣隋使
聖徳太子は政権を把握する初期に、朝廷は内憂外患の勢いに陥っている。いわゆる外患は、隋朝帝国の飛躍と朝鮮半島の情勢が揺れていることである。内憂は蘇我氏などの豪族の勢力がすごく活躍して、皇室の勢いは非常に薄れた。特に7世紀の初め、数多いの討伐がほぼ失敗で終わってしまった。これは聖人太子に古い制度を廃止することを意識させた。聖徳太子は、『憲法の十七条』を公布し、何度も使節を派遣して隋朝を訪問して、中国から経験を摂取することを試みていた。儒教を道徳規範にして、仏教を国家の精神にして、天皇を核心とする封建的な中央集権を作り上げた。隋朝に使節と海外留学生を派遣して、中国との国交を回復し、それによって、直接に大陸の先進的な文化を摂取する事ができる。 これは日本文化における計り知れない影響である。
1.2.2 隋唐時代の「対等」の関係
518年、楊堅は隋を建つ。600年、日本は初めて遣隋使を派遣した。607年、聖徳太子が再び小野妹子を隋に派遣して、そして、日本の王国書を付け加えて贈る。帝の楊広は推古天皇の上書での「東の天皇」という呼び名前が喜びではないので、「倭の王」の呼称で推古天皇に信任状を送った。二度の信任状において明らかな立場は、日本は中国の東端に位置する独立国家である。しかも中国の地位とは平等なので、両国の統治者はすべてなしの高下に分ける「天子」あるいは「天皇」である。663年、唐は日本の水軍と中日の間の一回目の戦争を展開していた――「白村江の海戦」。 戦後、唐王朝が国境を撫でるために、政策を出し、中日の敵対関係を解消し、200数年の中日の「友好」の交流の盛大な場面をお迎えてきた。
この時期の中日関係は三つ特徴がある。その一、日本はすでに「日の出の国」と「日本国」という呼び方を吹聴して、もう中国皇帝の冊封を受けなかった。その二、日本はもう唐王朝の冊封を受けないが、文明的な意味で中華文明に頼ることは事実である。だからと言って、この時期に日本国が中国に対して謙虚と協力的な態度を示した。その三、隋唐時期の船の貿易は伝統の意味での朝貢する貿易とは、少し違い、政府間の貿易ははっきりと示すことから始まった。
1.2.3 唐風文化の形成
日本の唐風文化は古墳時代の末期から、奈良時代の終わる1世紀間近くの間に発展し、繁栄する。この時期に、唐文化が影響した上で、飛鳥文化、白鳳文化、そして天平文化が次々現れた。
618年、唐が創立した後に、急速に発展する勢いと合い争って朝貢という局面になっていた。第一回遣唐使が630年に派遣され、それは894年に廃止するまで続きました。留学生、留学の僧が唐に滞在する時間は比較的長いので、大陸の文化に深く影響されて、そして、帰国した後に積極的にその文化や思想などを広げていた。 政治の上で唐との善隣関係に発展し、および経済の上で宮廷貴族が需要の貴重な物産を手に入れる以外、遣唐使にとって更に重要な使命は、唐の時代の先進的な政治制度、法令、文化、仏教などを学ぶことである。
その唐文化の中で最初に日本に影響するは白鳳文化である。白鳳文化は645年「大化の改新」から、710年に奈良に遷都する前での1時期の文化で、白雉の年号(650―654年)で名声を与えられた。この文化は仏教を中心にして、前の段階は大陸六朝の文化の影響を受けて、後期に唐の文化の影響を受けたというのである。その時に白鳳の文化の代表として残った代表的な建物は薬師寺の東塔、山田の寺の回廊などがあって、代表的な絵画は法隆寺の金堂の壁画などがある。
天平文化は聖武天皇の天平年間(729〜749年)を中心にさかえた奈良時代の文化である。 唐(中国)の文化の影響を強く受けた貴族中心の仏教文化で,インド・ペルシャ・アラビアなどの文化もとりいれられて、国際性にとんでいる。律令国家の発展を反映した壮大・華麗な文化が平城京を中心にさかえた。712年に出版になる3巻の本《古事記》、カタカナを利用して、天皇一族を内容として述べ、開闢以来の世界、神武東征、そして、武尊の討伐や推古天皇のお話までおすことに着く。 その内容は神話や昔話が多いが、しかし中から日本民族が形成する時期の痕跡をいくつか見つけることができる。
1.2.4 国風文化の形成
8世紀の半ばに始まった内乱(安史の乱)により、中国は東アジアの文化交流センターとしての役割を果たせなくなりました。そのため、最新文化が届かなくなった東アジアの諸地域では、それまで中国から学んだ文化を基盤にして、民族ごとに固有の文化が形成されていきました。例えば、日本人は漢字を略してカタカナを作り、漢字をくずしてひらがなを考案しました。衣服も住宅も日本の風土に合わせて改良され、国風文化が形成されました。
文化の名称 年代 特徴 代表作
飛鳥文化 7c前半 日本初の仏教文化 法隆寺・釈迦三尊像
白鳳文化 7c後半 初唐文化の影響 薬師寺東塔 薬師三尊像
天平文化 8c前半 貴族・盛唐文化 東大寺大仏 正倉院御物
弘仁貞観文化 9c 蜜教の影響 室生寺・神護寺 曼茶羅
国風藤原文化 10c 遣唐使廃止の国風 平等院鳳凰堂 源氏物語
院政期文化 11c後半~12c 浄土教の影響 中尊寺金色堂白水阿弥陀堂
(図1)
図1に載せているのは7世紀前半からの5世紀の間で、唐風文化と国風文化の影響で作り出した成果である。

1.3 五代・宋朝の日中交流
907年、唐の時代が終わり。それ以後の半分世紀、中国はここで分裂の状態に陥って、史称の“五代十国”の時期である。 この時、中国の政治の分裂のため、日本は中国のある一つ政権と正式に外交関係を樹立していなかった。それでも、両国関係は全体的に打ち解けて、商業貿易の付き合いと文化交流は一度も中断していなかった。
1.3.1 経済貿易の繁栄
経済と貿易の付き合い方の上で、日本がもう使節を派遣しないため、民間の経済と貿易は政府間貿易に取って代わっていた。しかも完全に中国側の商船を通じて日本へ行って、単項の取引で行ったのである。
1.3.2 政治の無国交
北宋時代、中日両国は外交関係を樹立していなかったが、両国政府の間では書簡の往来があったそうです。実に、北宋の商人は日本で厚遇と保護を受け取って、日本の高僧は北宋の朝廷に優遇することを得た。その時の日本は本国の商人が外国へ行って商業を営むことを許さないで、日本に入って商売する相手国も北宋だけだそうだ。 南宋の時期、中日の国交がない状態が依然として持続しているのですが、民間の商業貿易と文化の付き合いは更にゆったりした。

1.4 元明時期の平和と戦争
両国関係はよく変わって、局面は複雑である。日本の統治者が900年隔てていた後に再度、あるいは最後の冊封を中国の皇帝から受けたことがあった。協力で平和を持ってきて、戦争は国交を失った。 豊臣秀吉は朝鮮半島に武力対策を取って拡張し、再度中日間の大規模な武力的な対抗を誘発していた。民間レベルの付き合いは長期にわたり非理想的な状態をたもっていて、元末明初の「倭人の災い」で、中国民衆の対日感情が悪化していた。

1.5 封建晩期の日中関係
政治の面で、互いに用心して、国交も創立していなかった。相互の理解は主に中国の商人を通じて、貿易などの活動で積み重ねた。日本が厳しい鎖国政策を制定した。貿易の相手国を限定し、および国民が外国に行って貿易するのは禁止である。鎖国政策のため、民間の往来にも経済と貿易、文化の領域に限ります。たとえこのようにとしても、長崎はその時の中日両国の民間の交流のウィンドウとして、重要な役割を果たした。

1.6 日本古代の雑種文化の本質
中日の交流はすでに漢の時代から始まった。アヘン戦争の爆発に至るまで、中日関係は戦争に伴って、結局、日本が絶え間なく中国に各種の先進的な思想を学び、商業の貿易を行っていることで両国の絆を繋ていた。 このような絆は今の日本文化の「雑種性」において重要な一環である。そして、日本文化に中華元素を注ぎ込んでいた 。

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